手にて紡ぐ何か

 手によって何かを紡ぐ仕事にも様々なものがある。

お裁縫、寿司を握る、、、etc 言い尽くされぬもの。

 

私どもは手にて鍼を用い、病んだ経穴に『刺鍼』するという

鍼が経穴の虚実を捉え適切に処置を行う、この適切に処置するためには己の持っている道具と素手が確実に相性が良くなくてはならない。

 

手は道具のために、道具は手のためにあると言っても過言ではない。
己の手が相手の気を操作する理想の道具を用い、手にて紡ぐわけである。

 

長短・硬柔を判断する、それが鍼灸の手の役割である。

 

昔、、、高野山にてこの様な話がある

 

風変わり 禅師一休が、高野山明王院を訪れた際
一休 「当家にご厄介になりたい。」

真言宋では印相というものをとりわけ大事にするようじゃが、あのようなものは手遊びと変わるまい。児戯(じぎ)にもひとしきものじゃ。功徳などあるわけがない!」そう、嘘吹き踵を返して帰ろうとした時、明王院の忠義阿闍梨が柏手を打った。


その音に一休は思わず振り返りました。

 

すると、今度は手招きをしています。


一休は歩み寄り「やはり泊まれといわれるか?」と尋ねると


阿闍梨「先ほど、あなたは印相など手遊びの類、功徳などないと笑われたが、それならばなぜ、愚僧が手を打っただけで、振り返り、手招きすれば戻られたのか」と言い

凡夫の手の所作のみにでもこのような働きがある

 

まして仏の伝え給う印相にどうして功徳がないことがあろうか、と説いた
これにはさすがの禅師 一休も無言であったと・・・

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印を結ぶ手も鍼を刺鍼するも同じである